ゴルフ王国 マレーシア PART1 その歴史

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1枚目:ロイヤルセランゴールGC(36H/13,301Y/P143) / 2枚目:クアラルンプールのシンボル、ペトロナスツインタワー
3枚目:’99ワールドカップ開催のマインズリゾートGC(18H/6,810Y/P72) / 4枚目:J.二クラスの傑作、ボルネオゴルフ&CC(18H/7,162Y/P72)
ALL Photos by T.SHIMAZU

マレーシアのゴルフの歴史は日本より8年古く、1893年首都クアラルンプールのROYAL SELANGOR GOLF CLUBの開場から始まる。マレーシア経済のシンボル、世界一の高層ビル、ペトロナスツインタワー(452M)や一流ブランド店が軒を並べるKLCC(クアラルンプールシティーセンター)からわずか5分、ちょうど日比谷公園のような場所に108年の歴史が刻まれている。環状線タンザック通りに面した外門を抜けて森の中へと続くアプローチを進むと、ツタの葉に覆われた古(いにしえ)のクラブハウスが現われる。中には至る所に記念カップや優勝ボードが所狭しと並べられ、レストランに掲げられた巨大な木彫りのクラチャンボードは圧巻、まさにマレーシアゴルフ博物館だ。

コースはオールド・ニューの各18ホールとスレーメンと呼ばれる9ホールのパー3コースからなり、フラットな林間コースで1プレーヤー、1キャディーもしくは手引きカートによるセルフプレーだ。池やクリークは望むべくもないが、大きくせりだした大樹や右に左にドッグレッグしたレイアウトとバンカーが、パーシモントとヒッコリーシャフト時代の優雅なゴルフを思い出させてくれる。

1957年にイギリスから独立したマレーシアは、歴代の首相が44年間でたったの4人、20年間に渡って強力なリーダーシップを発揮するマハティール首相のもと、‘97年のアジア通貨危機もはね返し、2000年のGDP成長率は8.5%を記録した。人口は2,200万人、公用語は英語ながらこの国の人々のほとんどはバイリンガル。多くの異なった人種・宗教の壁を乗り越えて、マレー語、中国語、タミール語など複数の言語を使い分けながら共存・繁栄の道をめざしている。

日本に対してもとても友好的、‘80年代初頭からの「ルックイースト」政策によって人材育成・産業振興のために多くの留学生を日本に送り出し、相互理解を深めながら過去の不幸な関係も払拭されようとしている。始めてこの国を訪れた‘98年、ペナンブリッジを渡りながら地元のタクシードライバーが
「亡くなった親父が、戦時中日本人が建てた学校のことを感謝していた。」
とカタコトの英語で話してくれたことを思い出した。

20世紀に入ると英国人が住み付いた至る所にゴルフ場が出現した。キャメロンハイランドやフレーザーヒルズなどの避暑地のほか、ジョージタウン(ペナン島)やクアラルンプールに、そして母国・英国の伝統がマレーシアゴルフにも脈々と息付いている。‘90年代に入ってマラッカ・ランカウイ・コタキナバル(ボルネオ)などに新しいリゾートコースが開場し、現在では210のコースに30万人のゴルフ人口だ。

この国のほとんどのコースは2人乗乗用カートによるセルフプレー。距離表示がオーストラリア・ニュージーランド同様、メートル表示のみのコースもあるので慣れないと混乱するが、フェアウェイ乗入可能なコースも数多く、概ね快適なラウンドが楽しめる。

一部のコースでは伝統的に、巾の広い硬い葉のカウグラス(日本名:牛草)がフェアウェイ・グリーンに残っているが、徐々にバーミューダグラスに変更されている。‘99年タイガー・オメーラのアメリカチームが23アンダーでぶっちぎったワールドカップ開催のMINES RESORTS GOLF CLUB(R.T.ジョーンズJr.設計‘95年開場)やBORNEO GOLF&COUNTRY CLUB(J.ニクラス設計‘96年開場)など、日本でもめったにお目にかかれない程上質なレイアウトと高速グリーンの美しいコースも誕生した。

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